八ヶ岳 「ペンションあるびおん」の日々 : 沢内村医療行政

Mar 31, 2009

沢内村医療行政

 先日借りた来たNHKアーカイブス「沢内村医療行政 沢内村の模索」のDVDを午後見ました。私たちが自主上映しようとしている「いのちの作法」の原点が良く分かる記録です。
 昭和35年、豪雪と貧困にあえぐ岩手県の旧沢内村では村長の深沢晟雄氏の
「この宇宙時代に、老人や子供が石ころのように死んでも良いのか。医療行政は国がやるもの。でも国がやるまで、村がやりましょう。他のことはそれからで良い」という考えから、老人と乳幼児の医療費無料化が始まった。そして37年には乳児死亡率0を達成する。
 しかしこの時次長だった久保俊郎氏が村長になった時には、次長時代に警告を発していたように国保が600万の赤字になっていた。ここから旧沢内村の医療行政の模索が始まる。
雨漏りのするボロボロの役場の建物。そこで
1.10割給付はやめる
2.増税する
3.保険行政以外の行政を後退させる
を提案し、議長と議論した結果「まずは晟雄に続くことです。他の事は後回しでもいいです」という結論に達する。ここで凄いのは、深沢晟雄氏村長の良き理解者であり、苦言者でもあった久保俊郎氏が、予想していた通り赤字がふくらんだときに、「だからやっぱり・・・」ではなく、「今は晟雄に続くことだ。いつかきっと沢内村のやり方が特殊なものではなくなる。久保村政はそれからでも遅くない」と言ったこと。この村である限り、この行政が代々受け継がれてきた原点だと思う。そしてこの村では医療費を無料化すると同時に、保健指導・健康診断を強化し、無駄な薬漬け、無駄な検査を止めて医療費を少なくするこに務め、この制度の両輪とした。その上、国への陳情、働きかけにも務め、何とか乗り切る内に、沢内村に遅れること13年後の昭和48年に国が老人医療の無料化をはじめるた。しかし無料化という片輪だけではじめたため、それを儲ける手段とした病院が多く現れ、無料のため老人はそのような病院の梯子をして、薬漬け、検査漬けの結果、病院は儲かるものの、国保がパンクし10年でその制度は破綻を迎える。
 昭和57年、国の老人医療無料化廃止が叫ばれる頃、沢内村では「老人の主張大会」が行われ、「沢内村の伝統あるいのちの灯火を消すなかれ」と沢内村では老人医療費の無料化をつづけることがきまる。
 しかし、平成4年、今度は病院の存続が困難になる。薬を出来るだけ出さず、検査も最小限でとどめ、越冬入院(長期入院になるため保険点数が少なくなる=儲からない)という福祉的な入院を予防医学の一部として取り入れ、この様な住民にとって良いことのすべてが皮肉にも益々病院の赤字を増やす結果となる。そして累積赤字が2億となり村民集会が開かれ、村民の前で病院の縮小を主張する太田村長と維持を主張する増田病院長の討論が行われる。
その後、医療と福祉を分けたら等の提案もあり、この時も何とか病院存続の方向へ向かう。その後どう赤字を埋めたのかが良く分かりませんでしたが、増田病院長や他の職員と村民との信頼関係がとても良く映像にでていました。家族がいない、家が寒くて腰痛が酷くなる等の老人を越冬入院させ、春になるとその老人達をバスに乗せ、院長も一緒にそれぞれの家の周辺を見に行く。そしてそれからまた老人達は安心して自分の家に帰っていく。ここまでするのか・・・と胸が熱くなりました。
 合併して今は西和賀町となり、医療の無料化は無くなったようですが、この精神は今も沢内病院や老人施設、村民の間に根強く残っていることが、私たちが自主上映しよとしている「いのちの作法」を見ると良く分かります。
 日本は「国民皆保険制度」で誰もが何かしらの保険で医療費の負担から守られて来ました。しかし今500万世帯の国保滞納、派遣社員のリストラなどにより、これから益々それが増え、保険制度の存続すら危機状態です。不況の波も停滞して、いつ這い出せるのかも分からない世の中です。だからこそ、貴重な限りある財源を、今何に一番優先的に使うべきかを考えるときでは無いでしょうか。予算の取り合いをする前に。
7月5日(日) 午後ぜひ長坂コミュニティ・ホールで「いのちの作法」を見てください。

平和憲法シリーズの第二弾として「いのちの山河 日本の青い空 2」が2月15日にクランクインして、2月19日には西和賀町でのロケも進んでいるようです。
「いのちの山河−日本の青空 2」
もし「いのちの作法」が成功したらこれも・・・・なんて。
2007年9月11日に長坂コミュニティ・ホールで
「日本の青空 1」を見ましたが、これもとても心に残る映画でした。

ペンション風路さんの熱き思いはこちらから